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歴代ピアニストランキング

誰でも知っている有名なピアニストを何人知っているか調べてみました。名前は知っているけど曲名を知らない、あるいは曲は聴いたことがあるけど作曲者が誰かは知らないといったものは沢山あると思われます。それくらいの音楽の知識です、私。

リヒテルは来日時にポンジュースを愛飲していたそうです。

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ベートーヴェンなのか、ヴェートーベンなのか、ヴェートーヴェンなのかは知りませんでした。

また、なぜ大バッハと呼ばれるのかを知ることが出来ました。功績の大きさからだそうですが、この大バッハという呼び方がとても好きです。身の回りのお世話になっているもので大を付けて呼ばせていただきたいものはないか、と思い脳内で探しました。見つけたものは大500円玉です。

世界中で人気のモーツァルト(ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト 1756年-1791年)や、ベートーヴェンルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1770年-1827年 日本では楽聖とも呼ばれる)が作曲していた時に使った、あるいはその当時に演奏されていた曲は現代のものとは違った音で行われていたことになります。
ベートーヴェンモーツァルトハイドン(フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 1732年-1809年 交響曲の父・弦楽四重奏曲の父と呼ばれている)、彼らはウィーン古典派三大巨匠(古典派三大巨匠ハイドンベートーヴェンモーツァルト)とされていますが、現代の人が知る音楽とは印象が違ったものだったのかもしれません。

ショパン

フレデリック・フランソワ・ショパン(フランス語: Frédéric François Chopin 、ポーランド語: Fryderyk Franciszek Chopin(フルィデールィク・フランチーシェク・ショペーン) 、1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説もあり) - 1849年10月17日)は、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲クラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地であった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。
1988年からポーランドで発行されていた5000ズウォティ紙幣に肖像が使用されていた。また、2010年にもショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣が発行されている。

アシュケナージ

ウラディーミル・ダヴィドヴィチ・アシュケナージ(ロシア語: Влади́мир Дави́дович Ашкена́зи、ラテン文字転写例: Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )は、ソヴィエト連邦出身のピアニスト、指揮者である。ヘブライ語の姓「アシュケナージ」が示す通り、父方はユダヤ系であるが、母は非ユダヤ系のロシア人である。現在は妻の故国であるアイスランドの国籍を持ち、スイスに在住している。マウリツィオ・ポリーニマルタ・アルゲリッチ等と並んで、20世紀後半を代表するピアニストの一人である。

初来日は1965年のことで、以後は頻繁に日本を訪れている。2000年10月に初めてNHK交響楽団の定期公演の指揮台に立ち、2004年から2007年までは音楽監督を務めた。退任後は桂冠指揮者に任じられている。
就任を記念して放送されたNHKの特集番組では、ルツェルン湖畔の自宅に和室がしつらえてあり、様々な日本の文物が飾られている様子が紹介された。
NHK大河ドラマでは、2005年の『義経』と翌2006年の『功名が辻』のサウンドトラックで指揮を担当した。
2007年公開の日本のアニメ映画『ピアノの森』にはピアノ演奏・ミュージックアドバイザーで参加した。

シュピルマン

ウワディスワフ・シュピルマン(Władysław Szpilman、1911年12月5日 - 2000年7月6日)は、ユダヤポーランド人のピアニスト、作曲家。長男のクリストファー・W・A・スピルマンは日本近代右翼思想の研究者で、九州産業大学教授である。

幼少時からフランツ・リストの弟子であったヨセフ・ミスドヴィッチとアレクサンデル・ミハロフスキ(英語版、ポーランド語版)にピアノを学んでいる。ワルシャワショパン音楽院でピアノを学び、20歳からベルリン音楽大学でレオニード・クロイツァーとアルトゥール・シュナーベルに師事した。しかし、1933年ヒトラーが政権を掌握したことにより2年でポーランドへ帰国。ワルシャワポーランド放送のピアニストとして音楽家活動を始める。

 モーツァルト

ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト(ドイツ語: Wolfgang Amadeus Mozart、洗礼名:ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]、1756年1月27日 - 1791年12月5日)はオーストリアの音楽家である。古典派音楽の代表であり、ハイドンベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長などを務めた。

ベートーヴェン

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い、1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

リスト

フランツ・リスト(ドイツ語: Franz Lisztハンガリー語: Liszt Ferenc、1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、王政ハンガリー出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活躍したピアニスト・作曲家。
自身の生地であるハンガリー王国(当時はオーストリア帝国支配下の版図内)を祖国と呼び、ハンガリー人としてのアイデンティティを抱いていたことから、死後も「ハンガリー」の音楽家として認識・記述されることが多い。しかしながら、その一方で生涯ハンガリー語を習得することはなく、両親の血統、母語、最も長い活動地のいずれも「ドイツ」に属し、当時の中東欧に多数存在したドイツ植民の系統でもある。このような複雑な出自や、ハンガリー音楽を正確に把握していたとは言い難い作品歴から、非音楽大国系の民族運動としての国民楽派に含めることは殆どなく、多くはドイツロマン派の中に位置づけられる。ただし、祖父母4人ともがドイツ圏に出自を持つその民族性を強調することは、その作品を好み『前奏曲』などをテーマ音楽的に用いたナチスの記憶につながることもあり、今日ではあまり奨励されない。
ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。

ラフマニノフ

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov、1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者。

ハイドン

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732年3月31日 ニーダーエスターライヒ州ローラウ(英語版)) - 1809年5月31日 ウィーン、但し遺体はアイゼンシュタット)は、古典派を代表するオーストリアの作曲家。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。
数多くの交響曲弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。
弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツ国歌(ドイツの歌)に用いられている。

ドビュッシー

クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、フランスの作曲家。長音階短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などを用いて独自の作曲を実行し、その伝統から外れた音階と半音階の用い方から19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家である。
ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から、「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。しかし、本人は印象主義音楽という概念に対して否定的であり、テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃い。
なお、名前は生後1890年(23歳)まで「アシル=クロード」、1890年(23歳)から「クロード=アシル」である。

サティ

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Erik Alfred Leslie Satie、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家である。

サティは「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」と称され、西洋音楽に大きな影響を与えたと見なされており、ドビュッシーラヴェルも「その多くの作曲技法はサティによって決定づけられたものだ」と公言している。そして、印象主義の作曲家たちにも影響を与えたとされる。
パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノペディ』『グノシエンヌ』などを発表。カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、コクトーピカソと交流。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。今日よく知られている『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の曲。薔薇十字教団と関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。

なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって客の邪魔にならない演奏、家具のように存在している音楽というのは重要な要素であった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。
また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られている。
フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。
ドビュッシーとの交友関係もよく知られている。

リヒテル

スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル(ロシア語: Святосла́в Теофи́лович Ри́хтер、ウクライナ語: Святослав Теофілович Ріхтер、ラテン文字転写例: Sviatoslav Teofilovich Richter、1915年3月20日 - 1997年8月1日)は、ソビエト連邦のピアニストである。ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された。

ワルシャワでのドイツ・グラモフォンとの録音セッションでエンジニアを務めたハインツ・ヴィルトハーゲンは、この時使用したピアノについての証言を残している。スタッフが現地で調達したピアノはタッチにひどくむらのある粗悪な代物で、スタッフは当然リヒテルに拒否されるものと考えた。しかし彼は黙ってピアノの前に座ると、キーの感触を一つ一つ確かめながら、むらなく聴こえるようになるまで練習し、難のあるピアノを自在に操ったという。

その後彼は1969年にヤマハのピアノに目を止め、愛用するようになった。彼はその理由について「柔軟で感受性が鋭く、特にピアニシモが非常に美しい。私の表現したい心の感度を歌ってくれる」と語っている。このことはNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX』(2001年10月2日放送回)でも取り上げられた。